戦後76年間、調布飛行場(調布、府中、三鷹市)近くの府中市の旧家で保管されていた旧日本陸軍の航空機「一〇〇式司令部偵察機」の水平尾翼が今夏、初めて一般公開された。どんな命運をたどった機体の尾翼なのか。同市や専門家による調査で少しずつ明らかになってきた。
「父は戦時中、空母に乗船し、いつも飛行機を目にしていたんです。懐かしさもあって取っておいたのでしょう」。尾翼を所有する府中市の会社員戸井田和義さん(64)=写真=はそう切り出した。長さ約二・三メートル、付け根の幅約一メートルのアルミ合金製。八月四〜十日、同市の「平和展」で初めて展示された。
江戸時代から続く農家だった戸井田家は、かつて調布飛行場近くに広大な畑を持っていた。父の義三さん(故人)は空母「天城(あまぎ)」などで見張り役を務めた後に帰還。終戦直後に畑に落ちていた尾翼を持ち帰り、土蔵で保管していた。義三さんから「戦闘機の尾翼」と聞いていたが資料はなく、正体は分からなかった。
戦後もしばらくの間、戸井田家の畑には、米軍の空襲から航空機を守る格納施設「掩体壕(えんたいごう)」があった。戸井田さんは「幼いころは尾翼の上で跳びはねたり、掩体壕に上ったりして遊んだものです」と笑った。
調布飛行場は戦時中に旧陸軍が使用。今よりずっと広く、東京の防空拠点だった。空襲が激化した戦争末期の一九四四年、飛行場と周辺にコンクリート製で屋根付きの「有蓋(ゆうがい)掩体壕」約三十基、周囲に土を盛った「無蓋(むがい)掩体壕」約百基が造られた。戦後に多くは取り壊され、現存するのは四基のみ。市史跡「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」は十一月三日(文化の日)に内部が一般公開されている。
戸井田さんは昨年、土蔵の解体後に自宅で保管していた尾翼の調査を市に依頼。当初は「一式双発高等練習機」と推測されたが、イギリス空軍博物館にある実物の資料などと比較して「一〇〇式司令部偵察機」の右側の水平安定板と特定された。最近、新たな展開があった。終戦直後に撮影された同じ機体とみられる写真があったのだ。
◆同一機体 撮影か
撮影者は、元運輸省航空事故調査委員会首席調査官で航空ジャーナリスト協会顧問の藤原洋さん(93)=町田市。都立航空工業専門学校一年の時に終戦を迎えた。
「敗戦で軍用機は廃棄処分される。その前に見ておきたい」。藤原さんは終戦から二日後の八月十七日、同級生と二人で中島飛行機三鷹研究所(三鷹市)に潜入し、最新鋭の機体を目に焼き付けた。その足で調布飛行場を訪れ、複数の軍用機が放置されているのを確認。日曜ごとに当時暮らしていた千葉市の自宅から飛行場に通い、友人に借りたカメラで機体を撮影した。
武装解除で軍用機はプロペラなどの部品が取り外されていた。住民がガソリンを抜き取り、部品を取り外す様子も目の当たりにした。「当時は満足に食べることもできず、皆が生きるのに必死だったんです」
機体の照合の手掛かりは尾翼の表面に記された部品番号だった。劣化して消えかかっていた番号は「437右」と判明。写真と同じ「37号機」を表しているとみられ、藤原さんは「同じ機体の可能性は極めて高い。尾翼の実物を見てみたい」と話す。
この機体の由来はまだ多くの謎に包まれている。写真の尾翼にあるマークの部隊は大阪府八尾市の大正飛行場(現八尾飛行場)に所属していた。調査を担当する市ふるさと文化財課の英(はなぶさ)太郎さん(58)は「本来は調布飛行場にあるはずのない機体。なぜここにあったのか、理由を探りたい」。
文・服部展和/写真・市川和宏 服部展和
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