戦後76年㊦ 立川支局・竹谷直子(28)
「空襲の時、数発の爆弾が入った狭い防空
◆命の危険あっても逆らえない
防空壕にあったのは、ただの爆弾ではない。約60キロの本体に、大量の毒薬「イペリット」が詰められていた。国際的に使用が禁じられた毒ガス兵器。しかも、どす黒い液体が漏れた不良品だった。
イペリットは常温では液体で、触るだけで皮膚がただれる。爆弾が爆発すると気化し、鼻から吸い込むと気管や肺をやられる。「防空壕に命中すれば一斉に爆弾が破裂する。そりゃ怖かった」
石垣さんは工廠でイペリット爆弾の組み立て作業に携わった。空襲時、多くの人は爆弾がある防空壕を避け、別の場所に逃げた。それでも、石垣さんが防空壕に入ったのは「上からの指示だったから」。逆らえないというあきらめの気持ちがあったようだ。
イペリット爆弾は、本土に上陸する米軍に向けた「最後の手段」とうわさされた。「ガスを浴びた兵隊はすぐには死なない。医師や看護師らの手をわずらわせる。敵軍の弱体化に効果のある兵器だ」と石垣さん。人の苦しみを長引かせることで自軍の優位を導く発想に、私は「戦争はやはり非人道的だ」と強く思った。
◆根っこは戦前から変わっていないのか
工廠は東京ドーム15個分の広さ。最大3000人が働いたとされる。イペリット爆弾や
石垣さんが爆弾に詰めたイペリットの原液の製造部門で働く工員たちは、防毒服を着けてもガスを吸い込み、肺やのどが荒れて顔色は真っ黒だった。「ぜいぜいと呼吸し、せきをしても動ける者は限界まで働かされた」。石垣さんの作業も危険を伴ったが、はるかに危ないものだった。
石垣さんの話を聞き、私の頭に浮かんだのが今の日本企業の問題だ。上司の言うことに逆らえず、パワハラやセクハラが横行している。過労死もなくならない。組織の維持が優先され、働く人がないがしろにされる。戦後、日本は変わったように見えるが、根っこの精神はそれほど変わっていないように感じた。
◆理不尽さに怒り、思い継ぐ責任
石垣さんは45年6月に勤労動員を終え、実家で終戦を迎えた。13歳から毎日書いている日記を見せてもらうと、終戦の日のページに「敗戦!! 無念!!」と大書されていた。「日本は勝つ」と思い込み、玉音放送を聞いても、すぐには理解できなかったという。
イペリットの影響は、戦後も続く。2002~04年、工廠跡地を通る首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の建設現場などで、毒ガスの成分が検出されたビン約800本が見つかり、現場の作業員たちが体調の異常を訴えた。一帯では14年にも微量のイペリット成分を含む容器が発見されている。石垣さんは「これからも出てくる」とみる。
勉強に集中したり、友人と楽しく過ごしたりするはずの青春時代に、国に身をささげた石垣さんら当時の子どもたちを思うと、私はその理不尽さに怒りを覚えた。石垣さんは「世界のどこかで今も戦争は起こっている。これはいいことじゃない。戦争をしていいことはない」と話す。私たちの世代がその思いを受け継ぐ責任の重さを感じた。
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