Thursday, August 19, 2021

保管してきた竹槍「当時は真剣だった」 戦争伝えるモノ - 朝日新聞デジタル

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 【鳥取】戦禍を繰り返さぬため、記憶をどう継承するか。出版社「新風書房」(大阪市)代表の福山琢磨さん(87)=鳥取県出身=は戦争体験の証言集「孫たちへの証言」の発行を三十余年続けてきた。戦争を知らない世代に向けて、新たな取り組みも始めている。

 大阪で夕刊紙・国際新聞社などに勤務後、出版社を立ち上げた福山さんは50歳の時、「自分史」を事業の柱にした。質問に沿って回答を記入すれば骨格ができあがる「自分史ノート」を制作、販売し、各地で「自分史教室」を開いた。

 1980年代後半で、受講生のほとんどが戦争を体験した世代だった。自分史を書いてもらうと、戦時の記憶が次々と文字になった。

 戦場、引き揚げ、空襲、勤労動員、学童疎開――。同時代を生きながらも様々な戦争体験があると感じ、記録に残したいと考えた。88(昭和63)年、受講生の作品を集めて第1集の証言集をまとめた。3年目の第3集から公募を始め、毎年夏に発行を続けてきた。

 昨春、福山さんは脳梗塞(こうそく)で倒れた。証言集づくりはその夏の第33集で区切りをつけた。三十余年にわたり、寄せられた計2万超の手記に目を通してきた。戦地の惨状を知る世代はほとんど他界し、銃後を知る世代も少なくなっている。戦争体験の継承が困難さを増していると肌で感じる。

 数えで米寿になった福山さんはいま、戦時中の体験を含めた自分自身の足跡の記録に取りかかっている。

 福山さんは太平洋戦争が始まる41(昭和16)年春、上北条国民学校(現・倉吉市)に入学した。皇居の方向に深くおじぎする宮城遥拝(ようはい)に、天皇皇后両陛下の御真影教育勅語をおさめた奉安殿への最敬礼、戦地の兵隊に送る慰問袋づくり。それが「少国民」とされた子どもの日常だった。

 戦争の記憶といえば、物資不足だ。ノートは古紙などを束ねて自作し、梨の出荷用の包装紙の裏面を画用紙代わりにした。校庭にあった二宮金次郎の銅像は金属供出で姿を消した。

 44(昭和19)年、4年生の2学期には大阪などからの転校生が増える。本土空襲が本格化し、縁故疎開して来た。5年生になると、戦時色が一層濃くなった。「戦時教育令」で各学年は軍隊式の呼称で呼ばれるようになり、5年生は「第四小隊」となった。

 「本土決戦」「一億玉砕」。勇ましい標語をよく耳にした。体操の時間には竹槍(たけやり)訓練があり、先生は各自で作ってくるよう命じた。竹に菜種油をつけて軽く焼き、かんなで節を削り、肥後守(ひごのかみ)という刃物で削る。先生に上出来とほめられ、喜んだ。訓練では校庭の桜の木にワラ人形をくくって、ヤーと雄たけびをあげて突進し、槍を刺した。

 「ばかばかしいなんて、思いませんでした。当時は真剣にこれで米兵と戦うつもりでいたんです」

 45(昭和20)年8月15日の敗戦後、学校で教わる内容は様変わりした。

 こうした戦時下に学校で教わったことや暮らしぶりを伝えたいと、福山さんは自作の竹槍や当時描いた軍艦の絵などを大切に保管している。

 戦争体験の伝承には課題があるとも感じてきた。戦争を知る世代と、孫やひ孫の世代ではあまりにも取り巻く環境が異なり、文字だけでは伝わりづらい。ものを目にし、手で触れれば、戦争を知らない世代も想像力を膨らますことができる。そう考え、戦後75年の昨夏、有志の仲間と東京・品川で「“モノ”が語るあの日の記憶展」を開き、竹槍などを展示した。

 記憶を記録にとどめ、戦争をありのまま伝えるにはどうすべきか。福山さんの取り組みは続く。(中野晃)

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