Monday, November 30, 2020

マラドーナさんの主治医、過失致死容疑で捜査 アルゼンチン当局 - BBCニュース

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Dr Leopoldo Luque talks to reporters. Archive photo

サッカー界の伝説的選手だったディエゴ・マラドーナさんが亡くなって4日たった29日、アルゼンチンの検察当局は、マラドーナさんの主治医を過失致死の疑いで捜査していると発表した。

ブエノスアイレスの警察は29日朝、マラドーナさんが手術後に十分な治療を受けなかった疑いがあるとして、レオポルド・ルケ医師(39)の市内の自宅とクリニックを計50人態勢で捜索した。

当局によると、警察はコンピューターや携帯電話、医療記録などを押収したという。

ルケ医師は訴追はされていない。一切の不法行為を否定している。

Police officers stand guard outside the building where Leopoldo Luque, the personal doctor of late Argentine soccer legend Diego Armando Maradona, has his office in Buenos Aires, Argentina November 29, 2020.
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マラドーナさんは今月に入って、硬膜下血腫の手術に成功。アルコール依存症の治療を受ける予定だった。

マラドーナさんの娘たちは、投与された薬物について詳細を明らかにするよう求めている。

浮上した疑い

マラドーナさんの死去をめぐっては、手術後の自宅での回復療養が、一定の条件を満たしていなかった疑いが浮かんでいる。例えば、「薬物乱用が専門の」看護師らによる24時間態勢の対応や、呼び出しに応じる医師らの待機、除細動器を備えた救急車の準備などだ。

当局は、ルケ医師がマラドーナさんの自宅療養にどう関わったかを明らかにしたいとしている。

医師が会見

ルケ医師は29日、記者会見で涙を流すなど感情をあらわにしながら、友人だったマラドーナさんの治療で全力を尽くしたと主張した。また、マラドーナさんがこのところひどく悲嘆していたと述べた。

記者団に対し、「私にどんな責任があるのかって? 彼を愛し、面倒をみて、寿命を延ばし、人生の最期を改善した責任だ」と言い返す場面もあった。

ルケ医師は、「これ以上できないほど、すべてのこと」をしたと説明。手術に言及した際には、「私は神経外科医であり、私の仕事は終わった。彼とともに終わった」と述べ、マラドーナさんの自宅療養は自らの責任外だと強調した。

「彼はリハビリセンターに行くべきだった。そうしたがらなかった」とルケ医師は言い、マラドーナさんは「手に負えなかった」と話した。

除細動器の不備や、マラドーナさんの自宅前に救急車が待機していなかった理由については、わからないと述べた。

そして、マラドーナさんは「ひどく悲しんで、ひとりになりたがっていた。ただ、娘たちや家族、周囲の人たちを愛していなかったからではない」と話した。

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伝説的選手

マラドーナさんはアルゼンチン代表チームで、攻撃的ミッドフィルダーと監督を務めた。ワールドカップ(W杯)に4度出場し、91試合で34ゴールを挙げた。

1986年のW杯ではキャプテンとして同代表を優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦では有名な「神の手」ゴールを決めた。

Diego Maradona holds up the World Cup trophy
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1990年イタリア大会でも決勝へと代表チームを導いたが、西ドイツ(当時)に敗れた。1994年アメリカ大会でも代表チームのキャプテンを務めたが、薬物検査でエフェドリンが検出され、帰国を命じられた。

クラブ選手としては、バルセロナとナポリ(イタリア)などで活躍。ナポリ時代には、イタリアのプロリーグ・セリエAで2度優勝した。

サッカー選手人生をスタートさせたのは、アルヘンティノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)だった。セビージャ(スペイン)、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)、ニューウェルズ・オールドボーイズ(同)でもプレーした。

薬物中毒との闘い

選手人生の後半は、コカイン中毒との闘いだった。1991年のコカイン検査で陽性と判定され、15カ月の出場停止処分を受けた。

1997年の37歳の誕生日にプロ選手を引退。ボカ・ジュニアーズに2度目の所属中だった。

アルゼンチンの2チームで短期間、監督を務めた後、2008年に同国代表チームの監督に就任。2010年のW杯では準々決勝でドイツに敗れ、監督を退いた。

その後、アラブ首長国連邦(UAE)とメキシコのチームで監督を務めた。亡くなったときには、アルゼンチンのトップリーグに所属するヒムナシア・イ・エスグリマの監督だった。

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