はなくいどり 「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれ、紀伊半島の自然保護に尽力した岸田日出男(1890~1959)が、奈良県大淀町の自宅に残した関係資料約4千件の整理が終わったと聞いたよ。
A 町教育委員会は2018年、岸田家から段ボール箱で60箱ほどの資料の寄贈を受けた。大半が1905年ごろから50年余りのコレクション。自筆原稿などの文書類、山や集落などの写真、植物標本もある。県立大学などの協力で分類し、この3月、すべてリスト化された。色んな資料が、町のウェブサイトから探せるよ。
は 岸田はどんな人だったの。
A 1900年代初頭、紀伊半島は森林開発やダム建設による電源開発で、自然が急速に失われようとしていた。町教委などによると、岸田は自然保護のため国立公園にしようと考えた。
1908年に県立農林学校の林科を出て、1913年に吉野郡役所技手(後に奈良県技師)になり、山々を歩いて実態を調べた。地元の国立公園指定をめざす運動の中心になって尽力し、1936年の指定につなげた。
著作「吉野群山」には、1916年に植物学者の白井光太郎の講演「吉野名山の保護について」を聴き、吉野の山々の価値に気づいたと記されている。
は 資料にはどんな価値があるの。
A 元環境省近畿地方環境事務所長で、吉野熊野国立公園成立の経緯に詳しい水谷知生・県立大教授も整理に関わった。「岸田が吉野の山に入り、集落で聞き取りをしたり、古文書を写し取ったりしていて、人々の暮らしや歴史に幅広く関心を持っていたのが分かる。色んな分野の人がみることで資料をひもとける可能性がある」と言っているよ。
は 文化財に指定されているものもあるの。
A 国立公園化構想を進めていた当時の内務省の撮影隊が1922年8月に撮った「吉野群峯(ぐんぽう)」などの映画フィルム4本を、撮影隊に同行した岸田が保管していたんだ。現存する動画で県内最古の可能性が高いそうだ。昨年、映画フィルムとしては県内自治体で初の文化財(町指定)になった。
町は映像をデジタル化してユーチューブチャンネルで公開している。世界遺産の大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)や自然豊かな大台ケ原の風景、奈良、三重、和歌山の3県にまたがる急流瀞峡(どろきょう)の筏(いかだ)流しなどの様子を捉えた動画があるよ。
は ニホンオオカミの研究もしていたんだって?
A 頭の骨が保管されている。ニホンオオカミは1905年に東吉野村で捕獲されたのを最後に国内で絶滅、その標本は英国の博物館にある。
岸田が持っていた頭骨は上北山村西原で明治期に捕獲され、1939年に住民から譲り受けたものだ。生息域や入手経路も判明しているのは珍しいといい、吉野に残る唯一のニホンオオカミの手がかりだ。
その解明のため、昭和の初めに吉野各地の住民から記憶や伝承を聞き取っている。遺稿「日本狼(おおかみ)物語」にまとめられており、今回のリストにも概要が約70件掲載されている。
は 岸田コレクションは「奈良県の宝」だね。
A 国立公園の指定が吉野・熊野地域のその後のエコパークや世界遺産の登録につながったと専門家は評価している。自然と人が織りなす有形・無形の歴史遺産を守り、伝えてきた岸田らの思いを継承する常設の展示施設が必要だと関係者は願っている。
「日本植物学の父」の牧野富太郎は1920年、吉野群山の高山植物を観覧できる植物園・陳列館の構想を講演で提案したそうだ。町教委の松田度(わたる)学芸員は「それこそが『吉野熊野エコミュージアム』の実現ではないか」と話している。国内外の観光客に、この地域の価値をアピールできる場があればすばらしいね。(福田純也)
からの記事と詳細 ( ニホンオオカミの骨も保管、岸田日出男コレクションの活用は - 朝日新聞デジタル )
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