太平洋戦争中に駿府城公園(静岡市葵区)に駐屯していた旧日本軍が建て、戦後になくなった神社の石柱が、同公園内に放置されている。旧日本軍は各地の駐屯所で神社を建てたが、戦後、国家神道によって国民の戦意が高揚されたなどの反省から、これらの神社は姿を消した。静岡の郷土史家からは「石柱は戦争当時の社会の様子を伝える貴重な資料でもある。負の遺産に目をつむってはいけない」と、保管を望む声が挙がっている。 (板倉陽佑、写真も)
八月初旬、同公園内で行われている天守台の発掘調査現場の一角。公園整備に使われる資材などが置かれる中、二つに割れた石柱が地面に横たわっていた。ここにあった神社は「嶽南(がくなん)神社」。石柱には神社の名が刻まれているが、「神」の字の辺りで真っ二つになっている。二つを合わせると長さは約二メートル。
長年、どういう状態だったのかは不明だが、二〇一八年三月に付近の住民が石柱に気付いたときは野ざらしの状態だったという。
住民からの情報提供で調べた郷土史家の曽根辰雄さん(70)=同市駿河区=によると、石柱は駿府城跡に駐屯した日本陸軍歩兵第三四連隊が建立した同神社のもの。同神社は天皇への絶対服従を明記した一八八二年発布の「軍人勅諭」の下賜五十年を記念し、一九三二年に建てられた。「富士山の南」に位置していたことから名付けられた。天照大神(あまてらすおおみかみ)や明治天皇、戦死した連隊長らの英霊が奉られた。兵隊たちは出兵前に決別の儀式をするなど、心のよりどころとしていたという。
曽根さんは、石柱が壊された理由を「敗戦を受け、日本軍が奉った神社の一部を残すのはまずいと思ったのでは」と推測する。
本紙の取材に静岡市公園整備課は「石柱の所有者の特定や資料的な価値の判断ができない。移動させる予定もない」と説明する。現在は発掘調査の現場内のため、市民は立ち入れない。
曽根さんは「日本軍の歴史を巡っては賛否があり、関連のものを残すことにも議論があるだろうが、ウクライナ侵攻など戦争は人ごとではなくなっている。この石柱は、戦争に突き進んだ当時の社会を市民が学ぶことができる貴重な資料」と話す。
慶応大の安藤広道教授(考古学)は「近現代史は研究の積み上げが薄い分野で、行政は歴史的な位置づけに苦慮している」と指摘し「石柱が歴史的な価値を持っている可能性は高い。まずは地域の郷土史家のような人々に価値を見いだしてもらい、広く訴えていくことが第一歩」と語る。
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