Saturday, March 30, 2024

保管先も爆撃…守り抜かれて100年 歴史つなぐセンバツ優勝旗 - 毎日新聞

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センバツ第1回大会から第34回大会まで使用された紫紺の大優勝旗。名古屋のいとう呉服店(後の松坂屋)が製作した=2008年3月6日、小川昌宏撮影
センバツ第1回大会から第34回大会まで使用された紫紺の大優勝旗。名古屋のいとう呉服店(後の松坂屋)が製作した=2008年3月6日、小川昌宏撮影

 選抜高校野球大会(センバツ)は1924年4月に第1回大会がスタートしてから今年で100年を迎える。長い歴史の中でバトンをつないできた紫紺の優勝旗。センバツ最多の優勝5回を誇る東邦高(愛知)は、そんな大会シンボルを戦火から守り抜いた。同校を運営する東邦学園の榊直樹理事長は「先人が守ってきた優勝旗で大会はつながっている」と100年の歴史に思いをはせる。

 東邦は41年(当時は東邦商)の第18回センバツで3度目の優勝を果たした。当時は日中戦争のさなかで同年12月には太平洋戦争が勃発したため、42~46年の大会は中止となった。優勝旗は通常、優勝校が翌年の大会で返還するが、大会中止に伴い、優勝旗は東邦が預かる形となった。

 「東邦学園五十年史」や「センバツ50回青春の軌跡」(毎日新聞社発行)によると、45年3月、名古屋市内は米軍の空襲で数十発の焼夷(しょうい)弾攻撃を受け、優勝旗を保管していた同校の校長室にも落ちた。校長室隣の当直室で寝ていた当時32歳の山中英俊事務局長が午後10時ごろ、空襲警報で目覚め、優勝旗を腹に付け、さらしを巻いて落ちないように防空壕(ごう)まで運んだ。

 戦後、野球部の部長兼監督となる山中局長は、命をかけて守った優勝旗について「この旗には若人の血と汗がしみこんでいる」と語ったという。榊理事長は「優勝旗は大会の象徴。燃やしてなるものかとの思いが人一倍強かったのだろう」と話す。

戦後再開した第19回センバツの開会式で優勝旗を返還する東邦商(現東邦)の松林十二主将(中央)=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1947年3月30日
戦後再開した第19回センバツの開会式で優勝旗を返還する東邦商(現東邦)の松林十二主将(中央)=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1947年3月30日

 47年に再開した第19回センバツで優勝旗は返還された。その時の球場の様子について、当時の副主将で後に同校監督となる故近藤賢一氏は後援会だより(88年)の中でこう振り返っている。「平和への喜びか、思ってもいなかった優勝旗が戻ってきた感動か、そのどよめきは今でも私の耳から離れない」

 東邦の先人が守り抜いた優勝旗はその後、劣化も進んで62年の第34回センバツで役目を終えた。第35回以降は新調された2代目優勝旗がバトンをつないでいる。東邦は19年の第91回センバツで5回目の優勝を飾った。しかし翌20年の大会は新型コロナウイルス禍で中止になったため、2代目優勝旗についても一時預かる形となった。

平成最後のセンバツ優勝旗(左)と平成最初のセンバツ優勝のレプリカ旗を持つ東邦の石川昂弥主将(当時)=名古屋市名東区で2019年4月4日午後1時9分、大西岳彦撮影
平成最後のセンバツ優勝旗(左)と平成最初のセンバツ優勝のレプリカ旗を持つ東邦の石川昂弥主将(当時)=名古屋市名東区で2019年4月4日午後1時9分、大西岳彦撮影

 戦争、コロナ……。東邦は不思議な巡り合わせにより、初代、2代目の優勝旗が返還できない事態に遭遇しながらも大切に守ってきた。榊理事長は「先輩たちが優勝旗に込めた一球・一打への思いは、これからもつながっていくだろう」と話す。【川瀬慎一朗】

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